+『ダルムドーラスの翼竜使い』より・抜粋
1.
頃は、初秋。
雲はふわふわと細かに白く、空は抜けるようにどこまでも青い。風は微風、さらりと湿気を含まない季節、暑すぎず寒すぎず、これだけ天気が良ければ心も晴れ晴れと澄み渡ろうというもの。――普通ならば。
そう、普通ならば、である。
何だってこんな羽目に。
そう心の中でつぶやくのは、もう何回目になるだろうか。虚しくなるだけなのでいい加減やめようと決意するのも、もう何回目になるかわからない。
いい若いもんがそんなに憂鬱そうでどうするよ、と勢いよく背中を叩いた昨日の宿の主人を思い出す。少し背中がひりつくのはそのせいか。自分はそんなことを執念深く気にする性質ではないのだが、しかしその主人の目は、気の毒そうな爆笑してしまいたそうな複雑な色をしていたっけ、と思い返し、憮然とする。前言撤回。やはり自分は執念深いかもしれない。面白がりやがって、あの主人、今度会ったら(二度と会うことはないかもしれないが)ぶん殴る。
てくてくと埃っぽい大通りを綺獣を引いて歩きながら、それにしても、と青年は空を仰いだ。
くだらない理由で職を失い、紹介状は出してもらったにしても半強制的で、その理由は面白半分、しかも紹介先は国一つ半越えてゆかねばならない辺境なのだ。自分は不運だ、とわが身を嘆いても、誰に笑われる理由も軽蔑される理由もないのではないだろうか。
やっと国境まで来た。ここ二ヶ月ほど暮らしたアルゾーラス王国と、目的地であるダルムドーラス王国との国境である。いかな翼を持つ綺獣とは言えど、ひと飛びに通り越すにはこの大陸はあまりにも広すぎる。また、各地に設けられた関所は、翼ある獣に乗っていようが、必ず通過することが義務付けられているのだ。
くう、と鼻を鳴らして頭をすり寄せてくる彼の綺獣である黒い翼狼の鼻面を、なだめるように彼はぽん、と軽く叩いた。
「もう少しだ。あと――そう、三日くらいかな。もうちょっとの辛抱だから、いい子で飛んでくれよ」
ついつい綺獣に話しかけてしまうのは、彼の癖である。決して一人旅の寂しさからではない――と思いたい。
彼の綺獣は、大きな翼狼である。文字通り、翼を持つ狼だ。翼を持つからには、当然飛ぶことができる。大抵の翼狼は灰色毛や薄茶だが、ちょっと珍しい黒毛のこの翼狼は、前雇主であるアルゾーラス王国のレンド伯爵より贈られた餞別である。
翼狼としては非常識なほど大きいこの翼狼は、ひどく彼に懐いている。ほんの二、三日で日がな後をついて歩くようになった綺獣は、これまで数々の綺獣を慣らしてきた綺獣の専門家である彼としても、初めてだ。よほど相性が合ったと見える。前雇主である持ち主が、それならと気前良くも選別に寄越したほどに。
「関を通るぞ。大人しくしていてくれよ」
手綱を軽くぴんぴんと引くと、それに応えるかのように翼狼はくくう、と鳴いた。まるでこちらの立場をわかっているかのようだ。使い手の贔屓目を抜きにしても、頭の良い綺獣なのだ。
この国境の街エルマスは、ダルムドーラスとアルゾーラスとの境では、二番目に大きな街である。ダルムドーラスから輸出される綺獣は、ほとんどが最も大きな街・フォリッサスを通るため、街中では綺獣はほとんど見られないのが通常のようだ。大きな翼狼を連れた彼は、注目の的となっている。ちらちらとこちらを伺う視線が、目を丸くした街人たちの噂話が鬱陶しい。噂するならもっと小声でしろこの田舎者。
ため息をつき、彼は顰め面になるのをこらえながら関へと向かった。
巨大な石造りの門を通り抜ける。大規模な隊商でも潜り抜けられるほど大きく、ひとたび閉じれば、どのような軍隊にも容易には崩せないほど堅牢であることが、ひと目でわかるごつい造りだ。それが国境の関というものだ。
まだ正午には少し間のある刻のこと、朝のうちにこの街を発った隊商らの姿はすでになく、しかし近隣の宿場街から到着する旅人が現れるには、まだ早い。彼は綺獣乗りであったから足も速く、今朝隣の宿場町ロークスを発ったばかりにもかかわらず、こんな半端な時刻に関にたどり着いたのだ。
門を抜けた先の広場には、二、三の小商人らしき背負子の姿や驢馬車しかおらず、がらんとして見えるほど。もう二、三刻もすれば、あふれんばかりに賑わう場所なのだろうが――彼としては好都合だ。天気の崩れないうちに、さっさと先に進みたいのだ。
よいせと声をかけて背負子を背負い直した小商人が関税の小銭を数えている脇を、翼狼の手綱を引き、手持ち無沙汰そうに卓子に寄りかかっている役人の前まで進む。歩き出そうとした小商人がぎょっとしたようにふり返るのが見えた。うわ、でか、とつぶやくのが聞こえる。鬱陶しい。この程度の綺獣で驚くな、田舎者め。
彼は、懐から通行証と身分証を取り出し、ずい、と役人に突きつけた。役人の左右の眉が、きゅう、とそれぞれ上と下に動き、一レス(約二センチメートルほど)近くも段違いになった。奇妙な顔だ。驚いていいのかどうか、と躊躇しているようにも見える。
促すように通行証に視線を投げてみせると、役人は首を横にふりふり身分証に目を落とした。失礼な奴だ。
今度は、左右そろって眉がぴん、と跳ね上がる。
「アレイシア・アマーベラ、二十八歳。国籍はハレスナルデリア帝国――ほう、随分と遠くから。デディーナル? 知らないねえ、これはどこの町だ?」
「ファスカンから徒歩で半日」
「ほう、ファスカン。ハレスナルデリア第二の都市の? 大都市だな」
垂れ目の役人は、彼の頭の天辺からつま先までを眺め回した。あんないい場所からこんな辺境に落ちてくるなんてねえ、とでも言いたげな含み笑いに腹が立つ。ぐっとこらえ、アレイシアは素っ気なく頷いた。恥じることなど何もないのだ。その嫌ったらしい笑いを引っ込めろ田舎役人が。
「職業は?」
「綺獣使い」
「ほうう……」
引いている翼狼を見ればわかるだろう。綺獣を連れ回すことができるのは、綺獣使いだけだ。その能力がない者は、操ることはおろか、独りで綺獣に乗ることすらできないのは、幼児でも知っていることなのに。
「綺獣使いが何用でダルムドーラスに?」
そんなのどうでもよかろう。アレイシアの機嫌は一気に低下する。が、そう言ってやるわけにもいかず――機嫌を損ねると通関料をいきなり引き上げるような小悪党がいないとも限らないのだ――素っ気なく応える。
「雇い主……ああ、先の雇い主の意向で」
言った途端、レンド伯爵の愉快そうな馬鹿笑いを思い出し、いっそう機嫌が低下してゆく。ああもう、どうにかならぬものかこの事態は。
「……ふむ。目的地は?」
「オズリア」
「オズリア。ふむ、タンツァ辺境伯のお膝元か。査証は?」
「通行証についている」
見りゃわかるだろうが、この小役人。寸でのことでその言葉を飲み込む。
手の中で弄ぶように、役人はくるりと通行証をひっくり返した。手帳のように二つ折りにした、ハレスナルデリア帝国の紋章の焼印の入った革の通行証には、査証や旅券が挟み込んである。ぱらりと落ちかける査証を受け止めて、目を通したその刹那。
「む、こりゃレンド伯爵様の直印ではないか!」
そのとおり、前雇主のレンド伯爵マレイ・ブレイムは、査証に加え、直々に旅券に裏書きを加えてくれたのだ。おかしくてたまらないというように笑いながら。
「すりゃ、これ以上確かな保証もなかろうが……む、免税証? き、綺獣にか?」
目を白黒させながら、役人はアレイシアと彼の綺獣を見比べる。
綺獣は、貴重なものだ。綺獣使いというわずかな人種にしか扱えぬ、ドラシア山脈とフラム山脈の合わさる人跡未踏の険しい山地で生まれ出で、空を飛び、風や岩を糧として生きる、不思議な生物――それが綺獣である。
風や岩を食うと言われ、飼料も糞尿の処理も必要ない。空を飛ぶこともでき、疲れ知らずと言われるほど、また矢も通らぬと言われるほど頑丈。どの国も争って手に入れたがるのは当然のこと、そして彼らを操ることのできる特殊能力者たち、綺獣使いたちについても同様。
しかし野生の綺獣を捕えることはほぼ不可能に近く、捕獲する方法としては、綺獣使いが山脈の奥深くに分け入り、充分に慣らして連れ出してくるしかないのである。しかも、野生の綺獣の生息する地は、辺境中の辺境国、ダルムドーラスとレハンドのごく一部のみ。
そんな貴重な綺獣には、どの国も出国入国ともに莫大な関税をかける。免税証など、滅多に出るものではない。この小役人の驚きはもっともである。
もっともではあるのだが……。
「お、お前、いったい何しにダルムドーラスへ……あ!」
小役人は目を見張った。
嫌な予感がする。
アレイシアが思いきり嫌な顔をしてみせた瞬間。
「あ、あれかお前! タンツァ伯爵の跡継ぎの“嫁取り”か!」
アレイシアの嫌な顔で正解と悟ったらしい。
ぶわはははは、という下品な爆笑がその場に響き渡った。
「……蹴られたいか貴様」
凄んでみせるが役人の笑いは止まらない。そうか、そんなに蹴られたいのか。せっかくだから実行することにし、アレイシアは思い切り右足を振り上げた。
タンツァ辺境伯の“嫁取り”。
それは、大陸の二大山脈ぎわの奥地方、大陸一の辺境国と言われるダルムドーラス、その隣国アルゾーラス、レハンドあたりでは、その言葉を口に出した途端に思わず吹き出すような有名な笑い話であるらしい、というのは、つい先日知ったばかりだ。
曰く――。
時を遡ること十九年。
ダルムドーラスの大貴族、タンツァ辺境伯爵ドラルディン家の館では、当主アレイスが死にかけていた。老病に加え、若い頃から煩っていた持病の臓腑の病が悪化したためだ。
そして伯爵家の館の離れでは、アレイスの一人娘、ラリアが難産のため死にかけていた。
跡継ぎでありラリアの婿であるダリーズは、恐慌に陥る一歩手前、といったところだった。入り婿である手前、舅アレイスには頭が上がらず、美姫の誉れ高かった愛する妻、ラリアにも同じく頭が上がらない。
加えて、アレイスに見込まれるほど領地経営の手腕に優れているくせに、いざという時には踏ん張りの利かない性質なのだ。
孫息子をひと目見るまでは、と執念で生き延びているようなアレイスは、ダリーズにとってもラリアにとっても頭痛の種だった。何故かアレイスは、生まれてくる子供が男であることを信じ込んでいたのだ。ラリアの婿取りに苦労したせいなのか、しかしそれにしても常軌を逸する執着ぶりだった。朝に晩にラリアを呼びつけてその腹に話しかけ、男児に必要な衣装を仕立て、綺獣を購い、遊び道具や馬具を誂え、勉学に必要な書物をそろえ――ラリアは父を鬱陶しがりながらも困惑し、恐れをなしたダリーズは、ひたすら男児が生まれることを祈っていた。
しかし。
願い空しく、ラリアの生んだ子は女児だった。
その上、難産が崇り、ラリアは帰らぬ人となってしまったのだ。
最愛の妻を失って呆然とするダリーズに、狼狽しきった家臣たちは言い聞かせた。
生まれた子が孫娘だったことを、アレイスに知らせるわけにはいかぬ。死の床に就いているとはいえ、若い時分は翼竜を使う綺獣使いとして鳴らしたアレイスである。衝撃のあまり何をやりだすかわからない――というのである。存命のうちは、まだアレイスはタンツァ辺境伯である。印章を持ち出して自暴自棄に無茶を命令されれば、それがどんな無茶であったとしても、臣下としては受け容れざるを得ないのだ。そんなもの、握りつぶして口裏を合わせれば済むだろうが、くそ真面目でなおかつ狼狽中の家臣たちには、そんなことは考えつけない様子。
アレイスはひたすらダリーズが孫の姿を見せに来るのを、そして出生証とドラルディン家の世嗣としての証明書を待っている。まるで火を吐く寸前の翼蜥蜴の形相で。
片腕として、義理の息子として純粋にアレイスを尊敬していたダリーズは、舅を絶望させたくないと思ったのか、はたまた狼狽し混乱した家臣らの助言を真に受けたのか――血迷った。
血迷ったあげく、娘を“息子”として届け出てしまったのである。
めでたく出生届は受理され、“息子”はドラルディン家の世嗣として認められた。証明書も発行され、それを手にしたアレイスは安堵の表情で永の眠りについたのだった。ダリーズはそんな舅の死に顔を見て、“息子”を抱きしめて涙したのであった――。
しかし。
当然のことながら、問題はあった。
ダルムドーラス王国の戸籍制度は、明確にして強固である。官僚は法により厳しく統制され、賄賂や身分による便宜などは、存在し得ない。また、厳しい官僚制度は、発行する証書の過誤など許すはずがない。まして、受理する申請書の過誤を見逃すことなど有り得ないのである。――少なくとも、表向きそういうことになっているのだ。
また、タンツァ辺境伯といえば、国内では有数の大貴族である。その当主がその名のもとに届け出る証書に、間違いや訂正など存在しようはずがない。
つまり――タンツァ辺境伯家にとっても官僚たちにとっても、面子にかけても、後日間違いであったと訂正することなど認められるはずがない、のである。
くだらない面子だが、いつの世においても高官や大貴族とは、所詮そんなもののために生きている生物なのだ。
そんなわけで、アレイスの跡を継いだダリーズの世嗣ぎは、男児として生きることを強いられることとなってしまったのだ。
少し考えればわかりそうなものだが、人間血迷っている時にはその単純なことが考えつけぬのものである。
しかも、ラリアの死やアレイスの形相に浮き足立ったタンツァ辺境伯の家臣たちは、どたばたと上を下への大騒ぎを繰り広げたあげく、口止めする余裕のかけらすらもなく、その顛末は広い領地の隅々にまで広まってしまったのである。
――新しい領主さまの跡継ぎ“息子”さまは、実は姫君だそうな。
――新しい領主さまは、ご家臣ともども舅さまがおっかなくて、つい“息子”と届けてしまったそうな。
娯楽の少ない田舎の呑気な領民たちは、領主の死を悼みながらも、新しい領主と家臣の狼狽ぶりに、腹を抱えて笑い転げた。
その話は領地以外にも知れ渡り、当然出生届を受け付けた役所にも届く。
しかし。担当官僚たちはしれっとして、綺麗さっぱり、その噂話を無視してのけたのである。
頭を抱えたダリーズだが、もうこうなっては仕方がない。娘を“息子”として育てることにした。
幸いにして、当の娘は非常に大らかで、しかも辺境国の更に辺境という、言うなれば比する地もないど田舎のこと、土地柄も非常に大らかで、領地の農民たちも“若さま”だの“姫さま”だの好きなように呼び、親しんだ。乳母や教育係も似たようなもので、“若様”としての教育が“姫様”としての教育が入り乱れ、しかし細かいことは気にしない本人は、どの教育もあっさりと受け入れ、その優秀ぶりは領民にとっても自慢となるほど。綺獣使いの才能もあり、ドラルディン家の唯一の翼竜を七歳にして懐かせるという快挙も成し遂げた。
おらがとこの若さま、いや姫さまは大したもんだ。領民たちは鼻高々である。いくら領主ダリーズが複雑な胸中を抱えていようとも。
まぁ結果が良ければ良しとするか。
いい加減なのか大らかなのかわからない言葉とともにダリーズは大仰なため息をつき、そんなため息とともに、タンツァ伯爵領は実に平和に治められていた。
しかし。
“若様”であり“姫様”である娘が年頃になると、やはり問題が持ち上がってくる。
それが、“嫁取り”という名の婿取りであった。
跡継ぎである以上、結婚して子を成す義務がある。
戸籍上は、彼女は“男”である。
嫁を取ったのでは当然子は望めない。
しかし、書類上は“男”である以上、男と結婚できるはずがないのだ。
そして、役所はあくまで知らんぷりを貫き続けている。どう探りを入れようと、訂正など受け付けてはくれない様子なのである。
ダリーズは再び頭を抱えた。
それくらい初めに思いついても良さそうなものだが、とは誰もが思うことだった。しかし、血迷った人間というものは――いや、ここでまた繰り返すのは控えよう。
悩みまくったダリーズは、またまた血迷った。曰く。
跡継ぎ息子なら、嫁を取るのは当然である。そう、嫁を取ればいいのだ。――女の戸籍を持った男を。
そんな無茶な素性の男が、しかもタンツァ伯爵家に釣り合う、更に息子という名目の娘と釣り合うような器量の若い男など、いるわけがない。そもそも、女の戸籍を持つ男なんて、どこの世にいるというのだ。
至極もっともな家臣たちの意見に、ダリーズは主張した。確かに我が国、ダルムドーラス王国の戸籍制度、官僚制度は穴がない。今更訂正もごまかしも効かぬ。しかし、国外であればどうだ。国外の戸籍を持つ者であれば、ごまかしが効くのではないか?
つまり――国外に戸籍を持つ相応の青年の戸籍を女に改竄し、嫁に迎えればよいのだ、と。
家臣たちは驚愕し、そして呆れた。そんな無茶な。しかし、娘を“息子”として届けた時点ですでに無茶なのである。
では他にいい方法はあるのか? そう問い返したダリーズの目は完全に据わっていたという。
当の本人の“娘”はというと……。
いいんじゃない、親父どのの好きにすれば、婿でも嫁でも連れてこい、との返答。家臣らは違う意味で慌てた。大らかにもほどがある。ひょっとして我らは教育を間違ったか――? と不安にかられた一同に、娘はひと言。
――ただし。それと私が認められる人間でなくては駄目。ろくでもない男だったら蹴り倒す。
きっぱりと言い切った姫君は実に凛々しく、しかし母親譲りの美貌で微笑んだ、という。
狼狽した家臣たちは、その微笑に一縷の希望を見出したとか、逆に更なる不安に陥ったとか。
結局のところ、ダリーズの無茶な意見は通ってしまった。当の姫君があっさり問題なしと認めてしまったためである。
当初は乳母や教育係に、適当に子供を産んで庶子として届ければいいんじゃないか、と言って狼狽させたという大らかすぎる姫君だったが――とてもじゃないが乳母も教育係もダリーズには言えなかったという――国外から適当な青年を、という名門貴族にはあるまじき策を気にする様子もなく、かといって張り切って“嫁”候補と向き合うでもなく、日々タンツァ伯爵家自慢の綺獣騎士団とともに、山脈際の警備と領地の検分に励んでいる。
実に有能な姫君は、ドラルディン家に百年近くも居座る翼竜をよく使い、山脈際で暴れる野生の綺獣たちを相手にしたり、治水の様子を調べたりと実に忙しい。
そんな中、国内外から我こそはという青年たちが押しかけてくるのだが――ダルムドーラス国内の者がいたのは、一旦戸籍を国外に移してしまうという暴挙を考えている者がいたからである――当の姫君ときたら、宣言どおり、そんな青年たちを軒並み蹴り倒して回っているのだ。
青年たちはそれぞれ、綺獣使いとして自信があったり、剣の腕に覚えがあったり、学問に秀でていたりと、それなりに優秀であったのだが、しかし、誰ひとりとして合格点をつけられる者はいなかった。
なるほど、腕は姫君より立つかもしれぬ。頭も切れるかもしれぬ。しかし、姫君の器量と大らかさについていけるかというと――それが最も難しい点だった。
つまり、平たく言うと、性格的な問題である。
何しろ姫君は、大らかすぎる性格をしているので……。
そんな大らかな姫君に、結婚相手としての興味ではなく仕える相手としての興味を覚えてしまった“嫁”候補たちもおり、老臣たちよりも遥かに“嫁”候補に対する点数の辛い綺獣騎士団にちゃっかり加わってしまった者すらいるというのは、もう笑い話にするしかない。
ダリーズは三度頭を抱えた。
家臣たちも三度頭を抱えた。
領民や綺獣騎士団の呑気な若者たちは、笑いと娯楽を提供してくれる天晴な姫君に喝采を送った。
一向に気にする様子を見せないのは、ただ一人当の姫君だけだった。
……そんな喜劇を繰り広げつつ、三年。
当初十六歳だった姫君、デュカス・エスリーリア・ドラルディン姫はもうじき十九歳の誕生日を迎える。
まだ焦る年齢でもないじゃない、と嘯く姫君を嘆きつつ、もうこの際誰でもいい、誰かこの娘を納得させてくれ――といういささか情けない悲鳴は、ダリーズのもの。そろそろ現れる“嫁”候補も少なくなってきた今日この頃、はてさてタンツァ辺境伯ドラルディン家の運命やいかに。
――と、ここで必ずどっと笑いが起こるのが、この“嫁取り”の話なのである。
アレイシアに蹴られた役人は、足跡のついた腿をさすりさすり、アレイシアの渋面と低く唸った翼狼に恐れをなしたのか、やっと笑いを収めた。笑いすぎだ、この野郎。
「ま、まぁあれだな、ご苦労なことであるな。前雇い主の意向というが……レンド伯爵様の?」
「無理やり紹介状を持たされた」
答えると、それさえも可笑しかったのかぶぶ、と吹き出しかけられた。失礼極まりない奴め。ここまで教えてやる義理なんて全くないというのに。しかしここでひと言なりとも答えてやるあたり、結局アレイシアはお人好しすぎるのだ。この性格でどれほど損を被ってきたことか。そもそも、ただ面白がっているだけのレンド伯爵の意向など、それこそ蹴り飛ばしてやればよかったのだ。
ただ――綺獣使いとして、ダルムドーラスという国に興味がないとは言えぬ。
綺獣使いなら誰でも一度は、山脈の奥深くに至って自分だけの綺獣を慣らしてみたい、と思うものだ。そう、どんなに気に入りの綺獣を手に入れていたとしてもだ。
そんなアレイシアの思考を捉えたのか、彼の翼狼がくくう? と声を立てて彼を見上げてくる。何を考えているのかわからぬ顔をしておいて、一人前に嫉妬でもしているのだろうか。
よしよし、とその鼻面をなでてやりながら、アレイシアはちらり、と役人に冷たい視線を向けた。役人は小さく咳払いをし、査証に素早く署名をし、ばん、と音を立てて印を押した。別に、綺獣で威嚇をしているつもりはないのだが、並外れて大きな翼狼を連れていては、そのように見られるのも無理はないかもしれぬ。自分のせいではない。アレイシアはしれっとそんなことを考えた。
「え、まぁ、何でもよいがな。人間の分の通関税は、六フランジェだ。――頑張れよ」
何をだ、と凄んでやりたくなる気持ちを抑え、硬貨を二枚役人の手に落とし込むと、アレイシアは素っ気なく頷き身分証を受け取った。旅券や査証をきれいに挟み直すと懐にねじ込む。
手綱を引き、のしのしと歩く翼狼に恐れをなしてか飛びのくように道を空ける役人や小商人たちの間をすり抜けて、西側の大門を抜ける。
小高い丘の頂上であるこの大門からは、ダルムドーラスとの国境までを一望におさめることができる。ゆるりと弧を描く街道、草地、そして国境の向こうに広がる色濃い森林。そして遥かこの先には、綺獣の棲む山脈が連なっているはずだ。
そう、悪いことばかりではないだろう。……きっと。
アレイシアは翼狼の手綱を引いて止め、ひらりとその背に飛び乗った。普通の翼狼は大の男が騎乗できるほど大きくはないのだが、この翼狼は長身のアレイシアが乗ってもびくともしないほど大きい。むしろ、アレイシアの重みを喜んでいるかのようにくうう、と鳴く。
「よし、行くぞ!」
声をかけて手綱をふる。ばさり、と黒々とした翼が広がる。たたっ、と二、三度硬い肉球と爪が地面を蹴る音がして、そしてその体躯はふわりと空へ舞い上がった。
風を切る、力強い翼の音、そしてその付け根で動く強い筋肉。くぉう、という鳴き声には、綺獣が心底喜んでいる色があった。
ダルムドーラス入国の関までは、あと半刻。
'05.02.22 Akiko Takashino
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